スコッチウィスキーのデュワーズとオールドパー

私はクラシックなスコッチが好きです。中でもDewar’s(デワーズ)とOld Parr(オールドパー)が好きでこの二つのスコッチには特別な思い入れがあります。

現在のOld Parr

現在のDewar’s。写真は現在私の手元ににあるボトル。

私の祖父は尋常小学校を出て旅客貨物船のデッキボーイからの叩き上げで一等航海士から4隻のオーナー船長になって戦前は函館を母港にアジア各国と貿易と旅客輸送をしていました。戦後は殆ど隠居生活で本とウィスキーが大好きでした。その祖父が愛したのがオールドパーです。

祖父の中禰勘治郎の船長時代。

戦後になってOld Parrが手に入らない時は発売されたばかりのサントリーのオールドも飲んでいました。晩年の飲み方は濃い目の水割りノーアイスで夕食の後に縁側の太めの籐づくりのテーブルと椅子にボトルとピッチャーとタバコを置いて好きな本を読みながら眠たくなるまでそこにいました。その部屋のウィスキーとタバコの混じった匂いを今も覚えています。

最新デザインではありませんが私の手元にあるOld Parrです。

祖父は92歳で眠るように亡くなりましたが、その日も縁側には空のグラスと半分に減ったボトルと伏せられた読みかけの本がいつも通り縁側のテーブルに残されていました。

聞けば日本に初めて紹介されたウィスキーは英国を訪れた岩倉具視の使節団が持ち帰り明治天皇に献上されたOld Parrと言われています。その後は吉田茂を始め日本の政治家に愛されました。その理由がこの写真。

Old Parrボトルは中身の量に関わらず傾けても斜めに立っているので絶対に倒れない。という縁起を担いだそうです。写真は最新デザインのボトル。私もやってみましたが確かに斜めに立ちます。

さてもう一方のDewar’s(デワーズ)は1846年にスコットランドで創業したウイスキーブランドで、1893年にヴィクトリア女王より英国王室御用達を賜ったウィスキー。日本には1950年代に東京と大阪にDewar’sのパイロットショップ的なバーが出来て、大阪店は堂島の桜橋交差点近くのビル地下に誕生しました。

私が二十歳の時に親父が勤めていた堂島の会社に呼び出されて新地の料理屋の後に連れていかれたのかこのWhite Label デワーハウス (DEWAR HOUSE)。バーテンダーの所さんに「コレ、息子です。俺は酒はダメだけどどうやらコイツはいけるようなのでよろしく。」と言われてからのお付き合いになりました。今から思うと親父は自分が二十歳の時に船乗りだった祖父に函館のBARに連れて行かれていたので自分も一人息子の二十歳にはコレがやりたかったようです。

写真は1970年頃のデワーハウスの所バーテンダー。当時は初めての客を必ず写真に残してアルバムに綴じていました。数々の有名人がアルバムに残っています。写真の所さんの手にはその時のカメラが。

2000年頃からのバーテンは確か息子さんの代に変わって店は2007年にビルの老朽化で大阪駅前第一ビルの地下に移転しました。最後に現在の店のデータを書きます。そのアルバムはまだあるはずなので1970年版には私が出てます。

私が二十歳頃のDewar’s White Labelのラベルデザイン。

私のスコッチ好きにはもう一つ理由があります。母方に1837年スコットランド生まれで函館戦争の時の官命を受けて日本政府の鉱山技師となり、その後も函館で倉庫業を営み、88歳(大正14年)に永眠し今は函館の外人墓地に墓碑のある英国人ジェームス・スコットがいます。船長だった勧冶郎より39歳上です。

スコットランド生まれですからスコッチは大好きだったとしても当時手に入るウィスキーは日本製は未だ無いので輸入物、それもOld Parrくらいしかない時代。まして輸入食料品店は函館市内に何軒もある訳はないのでジェームス・スコットと祖父勧冶郎がウィスキーを介して顔見知りだったかも知れません。

スコット88歳の大正14年の葬儀の写真がありました。背景の函館山麓の洋館がスコットの自宅。

私とジェームス・スコットが血縁だったかどうかは定かではありませんが親戚なので市役所で鍵を借りて函館の外人墓地の中に入ってお参りは何度かしています。すでに私も歳なので若い頃の飲み方はできませんがそれでもたまにスコッチを口にすると二人の爺さんを想います。

デワーハウス (DEWAR HOUSE)リンク先は関西女のプチ日記さん

阪市北区梅田1-3-1 大阪駅前第1ビル B1F

06-6345-5146

17:00〜23:00

 

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